釧路菓子商組合

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お菓子釧路菓子職人めぐり

 菓子職人となって60年を迎える川内谷清司氏が、この道に入ったのは15歳の時のこと。
生まれ故郷の松前を離れ、親戚が余市で営んでいた菓子店へ就職したのが、この後に続く長い修行人生の始まりでした。



 当時は、洋菓子と言ってもケーキなどに使われるのはバタークリームが一般的で、今日のショートケーキのように生クリームを使うことが、まだまだ珍しい時代だったといいます。
 そんな菓子づくりの奥の深さに気付いた川内谷氏は、新しい知識や技術を求めて、次から次へと菓子店を渡り歩きました。

旅をするように各地を巡り、気になった銘菓を見つけたらすぐに店を訪ね、自分の腕を売り込んで、住み込みで働かせてもらう。
目的は「技を盗む」ことにあったため、店にとどまるのは早ければ1か月、長くても3年ほどだったといいます。

 そんな修業時代を送った川内谷氏は、驚くことに「甘い物はきらい」なのだといいます。
「お菓子は食べることよりも、作る方が好き」だと。氏にとっての菓子作りとは、芸術家にとっての絵画や音楽と同様に、自分の感性や才能を表現するための手段ということになりそうです。

 釧路にやってきたのは昭和37年。当時北大通にあった「宮地菓子店」に職人頭として迎えられたものでした。
長かった修行暮らしをようやく終え、念願の自分の店はここ釧路の地で構えることに。
店名の「豆の木」とは、遠藤さんという修業時代の恩師にあやかり、「エンドウ=豆」というシャレのような連想から名付けられたものなのだとか。
こんなところにも、氏の茶目っ気のような遊び心が発揮されています。


氏の集大成ともともいえる作品「千島海苔羊羹」。焼き海苔の入った伝統の一品。


 そんな豆の木の代表作「千島海苔羊羹」は、もともと郷里の松前に「海苔羊羹」があったことから、独自にアレンジを加え、北方領土返還の願いを込めて名付けられたものでした。

 最近のスイーツブームについては「ただ売れればいい、店が大きくなればいいということでなく、釧路に根付いたお菓子の文化を育てていきたい」というのが持論。製品を、自ら「銘菓」と名乗らないのも職人としての気概の現れです。



 「銘菓かどうかはお客さんが決めること。多くの人に受け入れられなくても、うちの味を気に入って買いにきてくれるお客さんを大切にしたい」と笑顔に話します。
今日も職人技に磨きをかけて、お菓子作りに精を出す川内谷氏です。
(令和2年(2020年)5月廃業)