見習いとして5年間住み込みで駄菓子づくりを学びはじめます。
その後、札幌へ上京しお菓子メーカーへ就職。当時その会社の
主力商品であったクラッカーせんべいの型を譲り受けることに。
昭和40年には帰釧、12月には現在の村井製菓を開業します。
開業への想いは特別で、
幼少の頃食べていたおやつの駄菓子が大好きで
「いつか自分がこんなお菓子を作る人になりたい」
と思っていたそうです。
物心ついてから32歳で開業するまで
忘れたことはなかったといいます。
夢を叶え、おせんべいを50年以上作り続けてきて、
その半分が厳しかったものの、それが苦になったことはなかったそうです。
ガンガンから取り出して、ひとつずつ丁寧に袋詰めする
「売り込みに行ったって、どの店にも置いてもらえるような棚なんてどこにもなくてね。知り合いからは、さんざんバカにされたよ」と当時を振り返る村井氏。
厳しい環境下で支えてくれたのは、奥様の協力と当時生まれて間もない娘さんの笑顔だったそう。
そんな時、当時市場で商店を営んでいた友人が取り扱ってくれることに。わずかながら友人の店から売れるようになると市民にも認知されはじめ、扱ってもらえる問屋も増えていきました。
涙ぐましい努力から20年、ようやく工場も軌道に乗りはじめ、
道内の大手商社からも声がかかるまでになりました。
お互いの身体を気遣いながらの作業。村井さんのおせんべいは二人の手によって作られています
ノスタルジーな機械によって作られています。
当時大阪から社運をかけて取り寄せたという、自慢のせんべい焼き器は、機械といってもタネを自動で型に流しこんでくれるだけのもので、焼き加減など味を決めるすべては村井氏の目利きよるもの。
工程のほとんどは経験と勘によって作られ、まさに職人の技。
袋詰めも機械に頼らず、奥様の手によって一袋づつ丁寧に詰められ出荷されています。
今は、当時のような無理をした大量生産ができないため、どのお店さんにも迷惑がかからいよう、大きな取引を控えているそうです。
釧路の街並みや生活スタイルが変わっていく中で、 味も人も変わらない村井さんのおせんべい。
今日も、二人の手で今日の分だけ作られています。
追記 平成26年7月に惜しくも閉店されました。